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2015年4月23日 (木)

痛みの解釈をしなくなった文化

人類はこれまで、文化を超えて痛みを常に意味あるものとして解釈してこようとしてきました。

しかし昨今、痛みの意味がなくなり、痛みに対しての思いや気づき、解釈することなく、無意味な存在として、医学に押しつけるようになってきました。

自分の痛みの存在を医学(他人)に預けたことにより、自我が弱まり、痛みを受け入れる力が弱まったのかも知れません。

それが宗教なき日本では、「お医者さま、お助けを!」的な、過剰な期待を医師に背負わすことになった一つの要因とも言えます。

痛みの存在を自我から切り離そうとすることは、肉体と精神を切り離すといった二言論的な考え方でもあるのですが、しかし現実は心と身体で一つの自我が形成されているわけであり、肉体と精神といった二言論的な切り離し的思考は、魂の苦しみを生み出すことになりかねません。

事故などと違い、慢性的な痛みには「二次的利得」が存在すると専門家は言います。

「かまって欲しい」「仕事を休みたい」など、隠れた目的によって、自ら痛みを作り出すことによって利益を得ることの意味です。

「自分の痛みはインチキとでも言うのか!」と腹を立てる人もいるかもしれませんが、「二次的利益」が悪いことではなく、それが生きる最善の方法だったのだと考えてください。

つまり痛みに訴えてでも休む必要があったのです。

休む必要とは、ただ休暇をとってリラクゼーションするのではなく、「生きること」「死ぬこと」について考える時間が必要ということです

昔はそれを僧侶やシャーマンが手助けしていたのですが、現代はなかなか難しいですね。

自分の死生観を見つめることで「心身一如」に気づき、それが自我の強化となり、「痛み」を受け入れる容量が増えることにつながっていったのです。

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